別のカウンセラーでは行き詰まっていたことが解消し、すごく幸せです
あいさん(仮名)30代 主婦
ディマティーニ・メソッド®
【私は“毒親”に育てられた】
私の父と母は安定した仕事があって、健康な身体と、庭付きの一戸建て、3人の娘を育てる周りからみたらごくごく一般的で恵まれた家庭でした。
でも、父と母はいつも苦しそう。
〝幸せの条件〟はそろっているはずなのに・・・
母の中にはどうしようもなく深く傷つき、泣いている幼い子供が住んでいて・・・
父もまた、「誰も自分を理解してくれない・・・」
そんな苦しみがあるようでした。
私が10歳くらいの時でしょうか。
そんな父と母の背中をみて、「あぁ、私はこれから先、生きていても苦しいだけなんだ」と、子ども心にこれからの人生を悲観しました。
私はいわゆる虐待家庭に生まれ、「毒親」に育てられました。
母に言われた言葉の数々が思い出されます。
「おまえなんて産まなければよかった!」と、私の存在を否定されました。
さらには、私たち三人姉妹は「あんたたちさえいなければ、私はあんな男と結婚せずにすんだ」、「どれだけ私が我慢して犠牲になっているか」、とも言われて育ちました。
父は家庭内暴力をふるう人でした。母によく暴力をふるっていたし、私も何度も殴られたことがあります。女の子だった私にとって、父親に怒りを向けられ殴られるのがどれほど怖かったことか・・・
怖くて怖くて。男の人が怖かった・・・
男の人は敵だ!と思って育ちました。
ある日母は父の家庭内暴力で警察に相談に行き、帰宅するなり私にこう言いました。
「おまえらの父親は犯罪者だ。だからおまえらはこの家を出て施設で世話になるんだよ」
私はそんな父母に育てられました。息をひそめながら、目を背けながら、生きてきたように思います。
【子育ての苦しみ】
のちに私は結婚し子どもを授かりました。子育てをしていると、まるで自分の人生を一からなぞるような感覚がありました。
母とのこと、父とのこと。
大人として振る舞おうとしてフタをしてきた感情。
両親から自分が求めているようには愛してもらえなかった。未熟な親に育てられた。その未解決の悲しみや寂しさ、怒りに襲われました。
結婚し家庭をもった私は、やっとやっと手に入れた幸せなのに、ほしくてほしくてたまらなかった自分の家庭なのに、心の底から満たされることができませんでした。
父や母と同じように、どうしようもなく深く傷ついた幼心と、自分をだれも理解してくれない!という思い込みがあって・・・
幸せの条件がそろっていても、ずっと苦しさを感じていました。
変化するのが怖いし、傷つくのも怖い。だから同じような人間関係のパターンを繰り返して苦しくて・・・
長女を出産して、わたしは母親になり、母はおばあちゃんになりました。
母は生まれたばかりの長女を抱いて、「今までの人生真っ暗闇でなんにもいいことなんてなかったけど、孫が産まれてやっと光が差し込んできたみたい!」と初孫の誕生に浮かれあがっています。そのときわたしの心に、静かに、静かに怒りが込み上げてきました。
じゃあ、わたしは何のためにうまれてきたの?
ねぇ、わたしがうまれてお母さんは嬉しくなかったの?
胸の痛みがまたうずいて、幼い子どもが泣いているようでした。
「わたしはお母さんなんかとは違う。子どもがうまれたらをいっぱい、いっぱい可愛がろう!子どもが生まれれば今度こそ幸せになれるし、幸せにしてあげられる!」
そう信じていました。
しかし実際は違いました。
初めての育児に戸惑い、幸せに浸れる余裕はなかなかありませんでした。
夜も昼もなく四六時中抱っこし、オムツを変え、母乳を与え、十分な睡眠もとれずにお世話をする。産後思うように動かない身体で、家事をなんとかこなしていかなければいけない。
当たり前のことが当たり前にできない。
「こんなわたしが、一体どうやってこの子をちゃんと幸せな子どもに育てていけるのだろう?」
大きな重圧と孤独。わたしは一人、自分のふがいなさ、情けなさを嘆きました。
「なんでわたしは苦しいことばかりなの?」
「なんのために存在しているの?」
空虚さにさいなまれました。
「お母さんもこんな気持ちだったのかもしれない…。」
子育てをとおして、母の癒えない悲しみを辿っているようでした。
母の実母は、母が6歳の頃に病気で他界しています。母はそれ以来ずっと死の恐怖に怯えていたそうです。末っ子だったわたしが6歳になって小学校に上がったとき、「あぁ、これでいつでも死ねる…」と、思ったそうです。
母は苦しい生育環境の中、ほしくてほしくてやっと手に入れた家庭。でも思っていたようにいかない日々。姑とも夫ともうまくいかない。DVをうけたり、実家には居場所がなく、周りのママ友にも劣等感を感じたり、
とても孤立して寂しい想いをしていたそうです。
母はそんな中でがんばって育ててくれたのに、私は母に感謝ができていない…という罪悪感。
子どもを育てる中で、うまくいかない時や苦しい時に「お母さんも苦しい中、育ててくれたんだよな…。でも結局私も自分の子どもたちに同じことをしている。なんて私って愚かなんだろう・・・」自分自身にもガッカリしていました。
【生きることの恐怖】
また、私の心にはこんな信念があり、自分を苦しめていました。
「無知で無力でなければ、姉たちのように親から虐げられる。なので、考えたり行動したりしてはいけない。」
「可愛くなければ、姉たちのように虐げられる。なので、可愛くみえるように振る舞わなければ価値がない。」
「男性は高圧的で暴力的だ。だから殺されてしまうかもしれない。」
「私のせいで両親は不幸になってしまった。だから私は存在していてはいけない。」
「人と深く関わると傷つけてしまう。変に思われてしまう。本当の自分をみせると嫌われてしまう。だから人とは浅く付き合おう。」
さらには、「私みたいにつまらない人間の話を、誰も聴きたがらないだろう」という信念もありました。私は、吃音(きつおん)、どもる、赤面症などの症状に苦しみました。
「この症状があるから、私は話ができない!」と信じていました。でも本当は、それは「私はつまらない人間だから、誰も私の話なんか聴いてくれない」というあまりに辛すぎる信念にフタをするための自己防衛でした。私が人と話ができないのは私がつまらない人間だからではなく、症状のせいだ、と信じたかったのです。
それは、闇の底にある自分への愛だったと思います。
吃音というかわいそうな私。そう思っていました。そして誰にも本音を話すことができず、とても孤独でした。
本当の苦しみを人に話せなかった別の隠れた理由として、「私は特別にすごく悪い境遇で育ったんだ」という一種の特別意識をもち続けたかった、ということもありました。人に話して分かってもらったりしたら、私は普通になってしまう。そんな気持ちもあってなかなか人に話せなかったような気がします。
私の心にあったこれらの信念は、子どもの頃につくられた無意識の信念です。子どものわたしが親や周りの反応を見て、生きていくために作り上げたものです。
私の心には、痛みと不安と、怒りを抱えたままの幼い子どもの自分が長い間いました。きっとまだまだ未解決の痛みはたくさんあります。
【娘への罪悪感】
私には娘に対して大きな罪悪感がありました。
あるがままの娘を受け入れられないのです。つい干渉して言いすぎてしまったり、こんな娘からは離れたいと感じてしまったり。私はあるがままの私を受け入れてもらえなかった悲しみがあり、その悲しみを今も引きずっている自分が許せなかったのです。
また、私が自分の子どもにできないことを他のお母さんがその人の子どもにしているのを見るたびに「私はダメな母親だ」と卑屈になっていました。たとえば、子どもの手が汚れていることにちゃんと気づいて丁寧に拭いてあげたり、子どもに対しておおらかに接したりなど・・・
「私の子どもに産まれてなんて可哀想なんだろう…。」私は本気で思い詰めていました。
【傾聴に出会う】
私は傾聴に興味をもつようになりました。それは、母に話を聴いてもらえない悲しみと怒りからでした。
ただただ人の苦しみに寄り添い、ただただ聴く。
我慢しなくてもいい、
感じるように感じてもいい。
ここにいていいんだよ。
そのままでいいんだよ。
ありのままの自分を肯定してもらえるという体験でした。
そこから人生も心も、動き出したように思います。
カウンセリングに通いました。でも、母に対するネガティブな感情を吐き出すことにとても抵抗がありました。1年間ぐらい無意識のうちに抵抗していました。
でも抵抗にも目的があったように思います。
それは、
「お母さんを愛したい!」
「お母さんの話を聴きたい!」という想い。
私が通っていたカウンセリングでしていたことは、感情を吐き出して、自分も同じことをやっていることを認めて、その嫌な行動を子どもに影響が出ないよう自分の行動パターンを見直す、そういうことでした。
でも、これでは本当の根本的な解決にはたどり着けないし、自分の行きたいところには辿り着けないんじゃないか。そんな違和感を感じていました。
私は〝聴くこと〟によって自己無価値感を払拭したい、と願っていたし、聴いてくれない母に対して復讐している気持ちがありました。
【死にたい思い】
さらに、私の中には「死にたい」がありました。
自分の押し殺した気持ちにこのまま蓋をしていたら、自分で精神を壊すか、肉体を壊すか、していたかもしれないと思います。
今振り返ると、私は苦しみを何とかしようとして、ディマティーニ・メソッドで問いかけられる質問と同じようなことを、自分でも無意識のうちに問いかけたりもしていました。でも、罪悪感や心の抵抗が邪魔をします。怖くて怖くて1人で解決することはできませんでした。ぐるぐる考えて、ディマティーニ・メソッドに参加することに決めました。
私は、こころの傷つきを根本から解決する!と、強く覚悟をきめました。
それは、「今までの生き方を死ぬ」という覚悟。
哀れでかわいそうな被害者をやめて、自分の人生の責任を誰かに押し付けることなく、幸せに生きていく勇気です。
でも、それだけ強い覚悟をもっていまたにもかかわらず、ディマティーニ・メソッド当日の朝まで、変化することへの抵抗や不安もありました。
未知への恐怖。
親の間違いを正す機会を永遠に失うんじゃないか。
不幸でいることのメリットが魅力的に思える。
不幸のままでいるという選択を、なかなか手放せなかったんです。
【ディマティーニ・メソッドに参加して】
ディマティーニ・メソッドを通して、ついに愛と感謝の状態になりました。自分一人ではできなかったことも、先生が側にいてくれたからこそ完了できました。深く大きな心の傷も、真っ暗な心の闇も解消できました。
そのとき、「あぁ、私のやりたかったことはこれだったんだ!」と、腑におちました。私はここに来たかったんだと、知っていたような気がしています。
ディマティーニ・メソッドの最後に<あなたのお母さんはどんなお母さんですか?>と尋ねられたとき、自分の口から「素晴らしい母親です」という言葉が出て、それとともに愛と感謝の涙が溢れ出ました。それは「許す」という境地ではありません。母のすべてに愛と感謝が湧き上がっています。
その日に見た夕陽がとてもとてもキレイでした。生まれてから見た中で、一番キレイな夕陽でした。
「おまえなんて産むんじゃなかった」という言葉が愛と感謝になったとき、ハートが開かれました。身体の前側と後ろ側が開いた感覚がしてあたたかい気持ちになりました。記憶にないくらい幼い頃、母が背中をトントンとさすってくれていたことを私の身体が覚えていました。その感覚を、背中が開いた感覚といっしょに思い出しました。
あのディマティーニ・メソッド以来、多くのことが変わりました。たとえば朝目覚めた時、身体が軽いです。気持ちが落ち込むこともありません。
前は、頑張りすぎたり、遊んだり、怒ってしまったりすると、気が入らず1人でボーッとする時間がほしくなっていたのに、それがなくなりました。
怒りで不安や悲しみをごまかすこともなくなりました。そのパターンをもっていることを知っていたので、物理的に距離をとることをしていましたが、怒りももう感じません。
イライラする自分にイライラすることがなくなりました。
ディマティーニ・メソッドに参加して5日目の朝、軽くなった体を感じながら、「あ!そうか!私の中で生きる理由探しと死ぬ理由探しにエネルギーを使っていたんだ!だからあんなに疲れやすかったんだ!」と、気がつきました。
それまでの私は、いつも自分自身を裁く裁判をしていました。自分は死ぬべきだという罪悪感と自己否定感がずっとあり、そのいっぽうで、死刑執行されなくて済む理由を探していたのです。しかしそれと同時に、「もう戦うのは疲れた。死んで楽になりたい」という気持ちもありました。
心の中で「生きたい」と「死にたい」がいつも戦っていたのです。
私はさらに、心の底につぎの思いもあって、それにフタをするために多くのエネルギーを費やしていたことが、今は分かります。
怒りと悲しみ
母を無条件に愛せない罪悪感
母からの愛を受け取れない悲しみ。
今は、心の中の戦いに浪費していたエネルギーを、前向きに生きるために使えるようになりました。それまで自分の気持ちを抑圧することに費やして疲れていました。そのエネルギーを、今は自分の情熱に使うことができるのです。
そしてこの情熱があるのも、必要としてくれる人がいるおかげ。受け取ってくださる誰かのために、自分のやりたいことのために磨いていける。と、前向きに思えるようになりました。
そして聴くことが純粋な喜びになりました。
あたたかい気持ちになっています。
さらに、ディマティーニ・メソッドに参加してから、
私は存在していい!
私は生きていていい!
私は人を愛していい!
私は人から愛されていい!
と思えます。私は生きていていい、愛されていい、ということが当たり前になったので、自分にそう言い聞かせる必要がなくなりました。とても穏やかです。
ディマティーニ・メソッドの経験を友だちに話しました。すると
「それだけのことをして満足したら、逆に達成感で死にたくならない?」
ときかれて、
「満足はしたけど、満足しきってはないよ。満足しきるのは死ぬ直前かも。やっと自分のやりたいことにエネルギーを使える!とワクワクしてる!」
と話しました。
【母との関係についての変化】
私の心の底に「幸せになってはいけない」という思いがありました。
それは、
「私がいたせいでお母さんは不幸なんだ。私が不幸仲間でいなくちゃ。」
「私が幸せになってしまったら、お母さんが踏み台になってしまう。そんな可哀想なことはできない。」
「恨むことでお母さんと繋がっていたい」、と思っていたから。
でも今は、私が幸せになることで母の願いも叶えることになるんだと心の底から感じられます。
私たち姉妹がいたことで、母は自殺せずに今も生きています。私たちが母の生に貢献しているんだ!と思えるようになりました。
以前の私は、母に「ありがとう」と伝えたり、母を許してしまったりしたら、ズカズカと私の中に侵入して荒らされてしまう!という不安がありました。母に侵入されたくないので、母と物理的に距離を取っていました。そのことの罪悪感もありました。
しかし、母は私が会わなくなったことで定年後も仕事に邁進し、ヨガや山登り、ウォーキング、バレーボールなど趣味をもってそこでさまざまな仲間と出会い、話を聴いてもらって自分の人生を肯定的に捉えようと、意味を見いだそうとしていました。
私が会わなくなったことで、母はさまざまなギフトを受け取っていたんです。母と距離を取ることの罪悪感も、もうありません。
自分の中に湧き上がった愛を伝えたい!
母に電話をかけました。
「お母さんありがとうね。幸せだよ。」泣きながら伝えると、母は「死ぬ前みたいだからやめてよ〜!」と笑いながらも、「ヨシヨシヨシヨシ」と言って気持ちを受け取ってくれました。相変わらず愚痴を話していましたが、それもなんだか少し愛おしく感じます。
前までの私は、「私が母を幸せにしなきゃ!」と勝手に背負って、できない自分にガッカリしていました。でも、母には母の人生があって、その幸せは母自身が見つけていっているんだなと今では感じます。
世の中でいう〝母の呪縛〟という言葉に違和感がありました。
呪っていたのは母ではなく、自分自身。
本当は私は、どこまでも母の中にいたかったんだと思います。執着し、侵入したかったのは私のほうでした。
また以前は、「母に感謝を伝えたりすると私にもっと執着してズケズケと侵入してくる」と信じていたので、母から距離を取らざるを得ませんでした。でも実際には、母に愛と感謝を伝えた後も、母は私にしょっちゅう電話をかけてくるわけではなく、執着したり侵入したりするわけではありません。
前の私なら、矛盾したことに、母が執着して侵入してしようとしてこなければ、そのことに寂しく感じていました。つまり、母には不幸で寂しくいて私を求めてほしい、という気持ちがありました。母の幸せを願えない気持ちがあったのです。
つまり、母には執着されても嫌だし、されなくても嫌だったのです。
でも今は、母が満たされているから私に執着してこないことがうれしく思えます。
ディマティーニ・メソッドのあとから、母から愛されていた記憶がどんどん蘇ってくるようになりました。まるで真っ黒が並んでいたオセロ盤が、バタバタバタと一挙に白に変わるように。
私は、母からまったく愛をもらっていない!と感じていました。ところが母からの愛が、実はいつもいつも、あった・・・。愛されていた経験はあったのに、無意識にその記憶にフタをしていたんです。
それは自分が被害者でいたかったから。母を加害者に仕立てあげたかったんです。
子どもたちに絵本を読むとき、私の声の中に母を感じてあたたかい気持ちになります。
息つぎの音。
ページをめくる音。
言葉と言葉の間。
ほんのり明るいベットの上のあたたかな時間・・・
私が幼かったころ、母がくれていたものでした。
また以前は、自分のつくる料理がそれほど美味しく感じられませんでした。母のつくった料理にネガティブな想いが多かったからだと思います。
それが、ディマティーニ・メソッド後はおいしく感じられるようになりました。
シフォンケーキの、形が良く焼けたところを子どもに渡した時に、あ!お母さんも私に「ここがおいしいよ」と、渡してくれていたことを思い出しました。
「あいちゃんが食べている姿が1番好きだよ」と、ニコニコして見守ってくれていたことも思い出します。
以前の私はお腹が減っていなくても「食べなきゃ!」と、食べることを窮屈に思っていました。それは私がご飯を食べていれば、お母さんは幸せな気持ちになれる、と幼い頃に信じていたからでした。そのことを思い出しました。その窮屈さもなくなりました。
私が傾聴に興味をもつようになったのは、母が私の話を聴いてくれなかったからですが、もっと深くには、母の心の中に入って母の心を知りたかったからです。つまり、「母はなぜあのときあんなことを言ったんだろう」という疑問の答えがほしかったのです。それは突き詰めてゆけば、「お母さんが私にひどいことを言ったりしたりした理由は私を愛していなかったからじゃない。母は私を愛していた」と思いたかった、ということ。
私は母の心に入ろうとしていたので、人といると相手の心に入ろうとするし、相手のことも自分に取り込もうとしてしまいます。心の境界が薄いのです。すると相手の苦しい気持ちによって自分も苦しくなります。私はそんな人間関係を繰り返していました。
でもディマティーニ・メソッドの後からは、母の愛が確信できますから、母の心に入ろうとすることがなくなりました。だから人といてラクです。
母への未解決の苦しみが解消した今でも、私は傾聴に関心があります。でもそれは、母の愛が感じられなかった苦しみからの関心ではなく、人の内面の美しさを感じたい、という人への愛から来る関心。だから傾聴することが負担になりません。
以前の私は、母は「私を苦しめる人」「苦しみのもと」だと100%確信していました。それが今は「私を支えてくれる人」に変わりました。180度の変化です!私は幼いころ、「お母さんみたいな優しい人になりたいなぁ!!」と思っていました。お母さんが大好きな気持ちもあったんです。その純粋な気持ちを、今ふたたび感じます。
娘と手をつないで歩いていると、昔、母と手をつないで買い物に出かけたときのことを思い出します。帰り道、両手いっぱいに荷物を抱える母に「お母さん、半分もつよ」と言うと、決まって「あいちゃんの背が伸びなくなるといけないから大丈夫だよ」と母は答えました。そう答えてくれるのが嬉しかったのを覚えています。
それでも母の役に立ちたくって、一緒に荷物をもちたくって。
「いいからもたせて」と、せがむといつも一番軽いものをもたせてくれました。
あの頃の母の手は、ガサガサであかぎれだらけ。
たくさんの苦労を抱え込んだ手でした。
誰よりもなによりも大切な手だったから、一緒に苦労も荷物も分かち合いたかったんだなぁと、今は思います。母の苦労も愛したかった。
これからは不要な荷物を手放して。自由にのびやかに、自分がしたいこと、本当に望むことを、していこうと思います。
【親への偏った理想化】
親への怒りに関連して最近気づいたことがあります。
私には、まみさん(仮名)という仲良しのママ友がいます。
私が母親に対して憎しみ、恨み、恐怖を抱えていたのとは正反対で、まみさんは彼女のお母さんに偏ったポジティブなラベルを貼り、「すごく良いお母さんなの」と言います。
私たちママ同士にもバランスがあったんです!引き寄せあったんです!だいぶビックリです!
ただ、私が偏った見かたをしていたことで苦しんでいたように、まみさんもポジティブに偏っているため子育てに苦しんでいます。まみさんは「私のお母さんは、私たち子どもにあれだけのことをしてくれたのに、それに比べて私は自分の子どもにちゃんとしてやれていない。私の子どもは私なんかのところに生まれてきてかわいそう」という劣等感と罪悪感があります。
【子育ての変化】
子育てにも大きな変化がありました。
ディマティーニ・メソッドで母に対しての怒り、悲しみを解消したとき、私はもう被害者ではなくなりました。
それは同時に、私が加害者ではなくなった瞬間でもありました。
加害者ではなくなったので子育てがとてもとても楽になりました。
かつては「お母さんを許してしまったら、お母さんみたいになってしまう!」と信じていた私。それは、私が加害者になる恐怖。娘にも同じように悲しい思いをさせてしまうんじゃないか、という恐怖でした。
私の心にはいつもその恐怖があったので、怒ったり、叱ったり、子どもが泣いてしまったりすると、とても不安になっていました。
「子どもを泣かせてしまうひどい私=死んだほうがいい」という方程式が無意識にできていて、過剰に不安になっていたのです。
さらには、母に無条件に愛されなかった悲しみのために無条件に子どもを愛せない自分。その自分に怒りを感じていました。
私が娘を今ほど愛することができなかった理由の1つとして、娘への嫉妬があったことが今は分かります。私は両親から愛情をもらえなくて寂しかったのに、娘は「もっと、もっと」と甘えます。そして夫や他の大人たちから優しくされる・・・。
その人たちが娘に優しくしてくれるのはありがたいことだけど、それと同時に娘への嫉妬もあったと思います。
また、「お母さんの子育ては正しかった」と母を守りたい気持ちもありました。歪んではいますがお母さんへの愛がそこにあったと思います。その気持ちにはさらに、あの親に育てられた自分自身を肯定したい、自分の人生を肯定したい、という思いもありました。
そのため、親からされて嫌だったことを自分の子どもにして、「こうするのが正しいんだ」と信じようとしていました。
また、親にされたことを自分の子どもにしてしまった原因として、「私はこうして傷つけられたからこんなに苦しいんだぞ!」と親に分かってほしい、という思いもありました。そこにはさらに、親から「辛い想いをさせてごめんね」と謝らせたい、という隠れた思いもあったように思います。
でも当時は、自分の中にそんな思いがあったなんてまったく気がついていませんでした。だからこそ人は自分をとめることができないのです。
世間には、子どもを虐待したり育児放棄をしたりする親を責める風潮がとても強いものです。でも私だって、自分の子どもを虐待していたっておかしくありませんでした。そういう親は、自分が愛されなかった悲しさや寂しさ、怒り、嫉妬、そしてそんな自分への罪悪感でいっぱいなのだと思います。そんな親に必要なのは責めることではなく、その気持ちを分かって支えてくれる人です。
ディマティーニ・メソッドを通して、母が加害者だという信念が幻想だったと分かりました。すると自分が加害者になる恐怖から解放され、子育てが怖くなくなりました。
私はまた、自分でもディマティーニ・メソッドをおこなって娘に対する罪悪感の解消に取り組みました。そして「あ!私の言動が娘の役に立っていたんだ!」と気がつきました。
自分でディマティーニ・メソッドをした次の日、本当に娘の役に立ってるんだ!と気づかせてくれた出来事が目の前で起こりました。その日、娘の友だちが遊びに来ていました。その子は知り合いの子に腹を立てている様子で、娘に「わたし、○○ちゃんって大嫌いなの!(私の娘の名前)も〇〇ちゃんが嫌いだよね?」と尋ねました。娘は同調せず「へ~そうなんだぁ~」と言い、そのつぎの瞬間には蝶々が飛んでいるのを見つけて「あっ!ちょうちょだ!」と、楽しいところに目を向けていました。さっきまで怒っていたその友だちも娘につられて楽しそうに蝶々を追いかけていました。また、娘は後日、「みんなが○○ちゃんと△△ちゃんの悪口を言ってるの。でも、わたしは○○ちゃんのいいところも△△ちゃんのいいところもいっぱい知ってるんだよ」と、わたしに教えてくれました。
娘は、私がしたことによって、人の両面を見ことのできる目が養われていたんです。悪い面だけではなくて良い面を見つけようとする、素晴らしい子に育っていたんです。
人から聞いた悪口に左右されず、自分の目で物事を客観的に見ることができ、人とポジティブに関われる子に育っていました。それは同じクラスの子にもとても良い影響がありました。娘はそれらの長所を通して、学校にも地域にも貢献していたんです。
子育てについての罪悪感が解消した瞬間でした。
【小学校一年生からの罪悪感が解消した】
また私は、娘が友だちとうまくやりとりができていない様子をみると、ハラハラしたり、つい口をはさんでコントロールしたくなる気持ちが湧いていました。それは罪悪感が原因でした。
私は小学一年生のころ、大好きだった親友とケンカをして意地悪をしてしまいました。その罪悪感が心のすみっこにありました。そんなことは普段は忘れているのですが、娘を見るとその罪悪感が原因になって、焦ったり不安になったりしていたことが、今は分かります。
私が小学一年生の頃に意地悪をした親友のお母さんは、いわゆる過保護な人でした。病弱だった親友をいつも神経質に気にかけていたのです。
その反対に、私はそのころ母から気にかけてもらえなくなりました。小学校にあがると、母は急に抜け殻のようになってしまったのです。実母が亡くなったときのことを想い起していたのでしょう。放任されていた私は親友のことがとても羨ましく、大好きなのに妬ましく感じられたんです。
彼女に腹が立って、なじるような言葉を投げつけました。自分にないものをもっている彼女に意地悪することで、羨ましさ、妬ましさ、を感じるみじめな自分を見なくてすみました。親から気にかけてもらえない寂しさを、つかのまの間でも埋めたかったんです。
わたしが親友になじるような言葉を投げつけていたのはまた、親友との間で母との関係性を再現していることでもありました。
「お母さんはなんであんな酷いことを言ったんだろう」
その答えが欲しくて、母になったつもりで親友を責めていたのです。自分で気づかないうちに親友に私を重ねていたということ。
母から見た景色を見たかった・・・。
また、「わたしはこんなに悪い子なんだ!だから怒られて当然なんだ!お母さんは正しい!だから、わたしは自分を罰しなければいけない!」こころの奥底にそんな想いもあって、親友を傷つけることを通して自分を傷つけて罰してもいました。
「傷つけてしまった。悪いことをしてしまった。彼女のお母さんにも申し訳ない事をした。」27年ずっと抱え込んでいたその罪悪感が、ディマティーニ・メソッドを通して解消されました。
あの親友は、私の意地悪によって私と気まずい関係になったことがキッカケになって、のちに音楽の道に進み、そこで本当に気の合う仲間たちに恵まれ、成人後も働きながら音楽を続けている、ということに気づいたんです。彼女のお母さんはピアノ演奏者でした。だから親友が音楽の道に進んだことは、そのお母さんにとってもすごく喜ばしいことでした。
また、当時の私には分からなかったことですが、私が放任されて寂しかったように、親友もまた過保護で苦しんでいました。彼女だって私が羨ましかったと思います。
もしあのまま私たちが仲良しでいたら、親友はお母さんへの反発心から、お母さんと同じ音楽の道に進むことはなかったはず。
彼女は私との仲が悪くなった翌日から、学校を一週間休みました。
それは、周囲とうまくやれず気を使ってばかりだった彼女にとって必要な時間でした。
彼女は病弱だったので身体ばかりを気にかけられていたけれど、本当に気にかけてほしかったのは寂しい心。彼女はあの一週間、家族からたくさんの関心と愛情を注いでもらえたし、彼女はその後も心に関心を向け続けてもらえるようになりました。彼女はわたしの意地悪によって関係が悪くなったからこそ、本当に欲しかったお母さんの関心を手に入れていたんです。
つまり、それまでは〝傷つけてしまった″という認識だったのに〝彼女の人生に贈り物をした″という真実が見えたんです。
またわたしは、彼女に意地悪をしただけではなく、クラスメイトから意地悪されていた彼女を守ることもありました。わたしは彼女に優しさと厳しさの両方を与えていたことにも気がつきました。
私は自分の心の痛みを解消したことで、娘が友だちとケンカをしたりしても感情が大きく揺さぶられなくなりました。
そして、娘の気持ちに寄り添う余裕ができるようになったんです。今は、娘に対してずっとラクでおおらかにいられます。
さらには、心の痛みを解消したことで、子どものころの楽しかった記憶と感情も感じることができるようになりました。それまでは知らないうちに抑圧していたんです。
今、娘たちと散歩して野の花を見つけると、あのころ親友と過ごした愛おしい記憶が薫り高くよみがえってきます。
【プラスもマイナスも必要だった】
以前は、娘の口癖、行動、身にまとっている雰囲気などに、母や幼い頃の自分自身を感じると嫌な気持ちになっていました。そしてその嫌な気持ちに負けないよう、「愛さなくちゃ」と頑張っていました。
その思いが、ガラっと変わりました。
私たちには優しさと厳しさの両方が必要だということが腑に落ちて分かったからこそ、厳しさを与えてくれた母への気持ちが愛に変わりました。子育てに絶対に必要な真理が分かったような気がします。
うわぁ〜そうなんだぁ〜〜
やっとわかったぁーーーー!!!!
厳しさ、試練を与えてくれる娘に愛おしさを感じます!
愛することとは、多くの人たちが思っているような「優しい、温かい」だけではありません。「優しい、温かい」と「厳しい、冷たい」の両方でありその真ん中です。それが分かったことで、厳しさも喜んで受け入れられます。
愛せない苦しみも、愛する喜びもどっちも必要だったんだ・・・娘もそういう配役の一人だったんだぁ。ありがたい。
わたしには愛された喜びも、愛されなかった悲しみも、そのどちらの感情も必要だったんだ。子育てを通して、娘から教えてもらったような気がします。
娘が1歳のころ、彼女を抱っこするとものすごく重く感じたものです。ところが今は、6歳になる娘はあの当時の2倍ほどの体重があるのに、抱っこすると「こんなに軽かったんだ!」と思います。
娘も、前は甘えることを我慢していたような雰囲気がありました。でももうそれを感じなくなりました。前は娘に対して申し訳なさが強かったのに、それが無くなったら、甘える娘のことを私がかわいいと感じられるようになったからだと思います。
今は、子育てで大変だなぁと思ったときも、母の苦労を想ったときも、心が温かいんです。罪悪感もないし、自分にガッカリすることもなくなりました。
ディマティーニ・メソッドの2日後くらいに、娘に「なんか、お母さんカウンセリングから帰ってきてからいい感じじゃん。笑顔が増えたね」と言われました。よく見ていらっしゃる…笑
今は子どもたちが心からユニークで誇らしく、愛おしく感じます。
これからは私らしい、のびやかな子育てができる気がします。
33歳、やっと母から自立できます。
【子どもの成長について葛藤する気持ち】
子どもは成長し、やがて親元から巣立っていきます。
「こんな子育ての負担がいつまで続くんだろう…。」私は娘に対して、早く大きくなって手が離れてほしい、と疎ましく思う部分と、「子どもが離れていったら自分が空っぽになってしまうようで寂しい」と、子どもに愛情を求め、自分の存在意義を証明してほしい、とすがる部分があり、その矛盾した気持ちに揺れ動いていました。
離れたいのにくっつきたいのです。
「大きくなるまでの辛抱だよ」
「小さい子をもつ親は、みんなそんなもんだよ」
「手が離れるときはあっという間なんだから今が一番いい時間だよ」
「たまには自分の時間をもって、気持ちをリフレッシュするといいよ」
よく聞く表面的なアドバイスや育児書にある方法論はあまり役に立ちませんでした。
でも、こころの痛みを根本から解消することによって、子どもと過ごせる貴重な時間の豊かさを受け取る気持ちの余裕ができました。
そして今の私は、子どもが喜ぶ顔をもっともっと見たい!と思えます。純粋に与える喜び、彼女たちの人生に贈り物をする嬉しさ、そして受け取ってもらえるありがたさを、以前の何倍も豊かに感じられるようになりました。
【お父さんとの関係の変化】
ディマティーニ・メソッドに参加する少し前に、勇気を出して、父に感謝を伝える!ということをしました。
すると父はこう言ってくれました。
「定年して親父が死んだ年齢にさしかかった頃は、今までやれなかったことをやって忙しくしていた。仲間と食べに行ったり遊びに行ったり。でもなんだか疲れていて。死ぬ恐怖がぬけた時に、仲間と遊ぶことがとても楽しくなった。
あいちゃんはあいちゃんで幸せなんだね。
あまり会えてないことに後ろめたさがあったんだけれど、いつも気にかけていたよ。
お互いさまだったね。
お父さんはお父さんで楽しくやってるよ。」
私は「お父さん、ありがとう!お願いだから長生きしてね」と、泣きながらハグをしました。
ディマティーニ・メソッドに参加したあと、父への怒りと恐怖を解消するためにディマティーニ・メソッドを自分でしてみました。父が母を殴る〝家庭内暴力″のシーンについてです。
それは私が小学生のときに起きたことです。とても怖かったのを覚えています。それ以来、「ひどい!お母さんがかわいそう!」と、父を悪者扱いするようになりました。
しかしその出来事の真実を見にいくと、私が〝怖い!″と思うことを選んだんだ、ということを思い出しました。
怖い!と感じた同じ量だけ、わたしの心には喜ぶ気持ちもあったことに気がついたのです。
お父さんとお母さんが関わりあっている。
無視したり、避けたりせずに、全身全霊で向き合っている。
そのことが、怖かったと同時に嬉しかったし、大声で怒鳴る声やぶつかり合う様子は刺激的でもあり、興奮させるものでもありました。だけどその気持ちは母が認める〝普通″〝まともな人間″からは外れているので、捨てないといけないと思っていました。
またその現場には、母を守る存在も、父を支える存在も、物理的な存在ではなかったけれど、確かにいて安全を守っていたことが感じられます。
被害者も加害者もいない。安全で守られて、お互いが響きあい、貢献しあっている世界。
けれどわたしは幻想の世界に生きることを選びました。だって、自分に幻術をかけ被害者であることを楽しみたかったから。
〝悲しみ″〝恐怖″〝怒り″その感情にどっぷりと浸かってみたかったから。
だからわたしは当時のよく見えていた目を切り離したんです。
いつかまた、世界の素晴らしさを感じられると分かっていたから。
ディマティーニ・メソッドで取り組んで気づいたことの1つですが、母が「おまえなんか産むんじゃなかった!」と私に言ったおかげで、私は母に心を閉ざす代わりにそれまで避けていた父に愛情を求めるようになりました。
それがあったから父の優しさに気づけて、男性に対する見方が変わって結婚もできました。子どもも授かることができました。
以前は、自分の女性的な部分は母のようだから嫌で、男性的な部分は父のようで嫌でした。また、私の身体の中で父と母が喧嘩しているような感覚があり、「どちらかの味方につくと、もう一方を否定しなければいけない」と無意識に思っていました。私の中に本当は女性的な部分も男性的な部分もあったのに、そのどちらかしか受け入れてはいけない、と感じていたのです。そのため身体は女性なんだけれど、「わたしはこの体にいていいのか」と違和感があったんです。
でも今は、父と母に愛を感じるようになったことで、自分のセクシャリティーに男性性と女性性の両方がうまく存在している感覚がします。「女性の身体にいる自分でいいんだ」と感じられます。
またかつての私は、父の空虚を埋めてあげなければいけなきゃ、父に対してお母さんの代わりに面倒をみなきゃ、と勝手に重荷を背負っていました。さらには、父のことを充分に満たしてあげられず父をおざなりにしている、という申し訳なさがいつもありました。
あっ、そういえば父への申し訳なさがなくなっています!重荷を背負おうとしなくなったから!これは新しい発見です!
今では父との関係がとてもラクになりました。ディマティーニ・メソッド後に私の家を訪ねてきた父を見たとき、「あ、素敵な目をしている」と思いました。初めてのことでした。
瞑想して父と母のことを思うと、笑っている顔が浮かぶようになりました。以前は二人が笑っている顔など決して想像できなかったのに。
【家族関係の変化】
私は、本音を隠していい子ぶっている姉に怒りがありました。
また、姉の、姪(姉の子ども)に対する言動に嫌なモヤモヤもありました。姉は姪に対して一見正しいことをしているけど、そこには「お母さんのようにしちゃダメ」という恐れがあるし、姪に対する怒りを押し殺しながら「正しい子育て」をしようとしているようで、その様子を見るたびに心がザワザワしていました。
また、姪が姉の顔色をうかがう様子を見ると、まるで私たちが子どもだったときに姉が母の顔色をうかがっていた様子と重なりました。そうなると「私がどうにかしなきゃ!」と、プレッシャーを感じていたような気がします。
また、姉の言動が気になっていたのは、姉のことを気にすることで自分の問題から目をそらすためでもありました。さらには、「私はカウンセリングを受けたりして自分の問題に取り組んでいるのに、姉はそういうことを全然していない」と姉を見下す思いもあったと思います。
以前の私は、姉に対してそのようなネガティブな気持ちがあったので、姉が私の家に来るときには、入って来られるのがちょっと嫌かもと思ったり、姉がいるときは緊張していたり、帰った後にドッと気持ちが疲れたりしていました。
ところが、ディマティーニ・メソッドを通して、姉がバランスをとってくれていたこと、そのため私が最高に成長できたことが腑に落ちて分かりました。そして姉に対しても愛と感謝の状態になりました。
すると先日、父と姉たちが我が家に来たのですが、入られるのがイヤだとか、緊張とか、あとでドッと疲れるとか、そんなことは一切感じませんでした。
【犬のタラちゃんへの愛】
私にはまた、かつて飼っていた犬のタラちゃんへの罪悪感もありました。ワンワン吠えるタラちゃんに「うるさい!」と大声で怒鳴ったり、頭をパシッと叩いたりしていたからです。自分が親からやられて悲しかったことを、自分でもしてしまう・・・ダメだと思っているのに・・・
「吠える=悪いことをする=罰を与えられる」というのは私が親からやられたことであり、「そうするのが正しいんだ」という思いがありました。またタラちゃんを叩いたり怒鳴ったりするのは、心がいっぱい、いっぱいでゆとりのなかった自分を保つための方法でもありました。
なんてひどいことをしたんだろう。
可哀想なことをしたんだろう。
自分って最悪だ。
タラちゃんへのそんな罪悪感と、自己否定がありました。
カウンセラーの先生と一緒に、その時の感情をヒシヒシと味わいました。そして「仕方のないことだったんだ…」と罪悪感に折り合いをつけていました。楽にはなったけれど、どこかで後ろめたさが残っていました。
ところがディマティーニ・メソッドを通して解決に取り組んだことで、その罪悪感が「仕方がない」とか、許すのではなく、愛と感謝に変わりました。
私がタラちゃんに厳しくしたからこそ、姉がタラちゃんに優しさを与えていたことに気がついたのです。タラちゃんの晩年には、結婚して家を出た私に、姉はタラちゃんの写真を送ってくれたりタラちゃんの近況を教えてくれたりしていました。私がタラちゃんに厳しくしたり、家を出たためにかまってあげることがなくなったりしたからこそ、姉がタラちゃんにたっぷりの愛情も優しさを与えていました。
もう罪悪感は感じません。
すると、タラちゃんへの愛が今までよりももっと大きくなりました。
タラちゃんがどれほど私を支えてくれていたか・・・。
ある日、私がおばあちゃんの家に行ったことがきっかけで両親が激しい口論になったことがありました。怒った母は家出をして、次の日荷物を取りに帰ってきました。母がバンバン音をたてながら荷物をまとめている音が聞こえます。怒りがすごく伝わってきて、前に母から言われた「おまえたちのせいで!」がよみがえります。私は洗面所で一人で泣きながらうずくまり、「私のせいでお母さんが家を出て行ってしまう!」と自分を責め、ものすごい恐怖に耐えていました。そのとき、涙で濡れたヒザを見ながら、そこにはいないはずのタラちゃんを感じました。
いつも私が泣いていると、足をペロペロ舐めて慰めてくれたタラちゃん。私はあのとき洗面所でうずくまりながら、そこにタラちゃんの背中を感じ、母に捨てられるかもしれない恐怖のなか、同時に癒されていました。
タラちゃんは芸を覚えませんでした。だからバカな犬だと見下していたけど、人の気持ちをよく感じとることのできる、人を癒してくれる、人と人とをつないでくれる、そんな愛おしい存在でした。
あ、これってわたしのことだ!私は姉ほど頭がいいとか優秀とか、そういうことがないため劣等感を感じており、それをタラちゃんに向けて、芸のできないタラちゃんを見下していたのです。でも自分の劣等感が解消した今は、私もタラちゃんのように人の気持ちを感じ、人を癒し、人をつないできたことが、分かります。
わたしが自分への愛を見つけたからこそ、タラちゃんにも愛を感じるんだと思います。
【身体への愛のフィードバック】
以前、職場でパニック発作を起こしたことがあります。
ある日のことでした。上司が同僚のスタッフのミスに腹をたて、「俺なんかいなくてもいいんだろ!」と怒鳴りつけ、勤務時間中にもかかわらず車で飛び出していってしまったのです。
その上司は、日ごろからスタッフにモラハラをする怒りっぽい人でした。今振り返ると、私はフラストレーションを抱えるスタッフたちの間を、ニコニコしながら取り持つ役を自ら買って出ていました。私はその上司に母を重ね、
「わたしがニコニコして我慢していれば家族をつなぎとめられる」
と無意識に信じていたのです。
上司が飛び出して行ったとき、母が家出をしたあの場面が脳裏をよぎりました。
「私のせいでお母さんが出ていってしまう!!」
強烈な不安に襲われました。しかしその瞬間、同じく職場にいた上司の奥さんが過呼吸になったので、「わたしがしっかりしなきゃ!ちゃんと守らなきゃ!」と自らを奮い立たせながらも、妙に冷静になったのを覚えています。
次の日、その上司から何の弁解も謝罪もありません。私は「どうして!??こんなにも迷惑をかけておいて!わたしたちは何事もなかったかのように、これからもいなきゃいけないの!?」とものすごい怒りを感じました。それと同時に自分の無力さを感じ、厳しく自分を責めました。そして気がついたら息ができなくなり、倒れていました。
意識がもうろうとする中、「これは母との関係性の再現なんだ。やっぱり向き合わなきゃいけないことなんだ」と、ハッキリ自覚したのを覚えています。
それを機に仕事を辞めました。その後も職場の近くを通るたび、動悸や不安、焦燥感が湧き上がりました。それからも何となく後ろめたさを感じていました。
でも本当はいちばん辛かったのは、〝いい人″を演じつづけることでした。自分から勝手に買った役だけれど、そうする以外に自分の存在意義が見いだせず苦しかったのです。
わたしは主人の家族にも〝いい嫁″をがんばって演じようとしていました。パニック発作で仕事を辞めた自分のことを、「心がポッキリと折れてしまった弱いダメな人間だ」と思われて嫌われてしまうのがとても怖かったです。
しかし実際には、パニック発作で退職したことを泣きながら伝えたら、主人の家族と心の距離が近くなりました。
心を開いて話したことで、いつも優しくて完璧にみえた義理の母にも、本当は癒えない心の傷があるんだ、と教えてもらうことができました。それまで私は義母のような素敵な母親に憧れ、「自分もそうならねば!」と無意識に自分で自分を裁き、そうできない劣等感に苦しんでいたのです。でも義母にも心の傷があることを知って、「完璧を目指してがんばらなくてもいいんだ…」と、ホッとしたことを覚えています。
また、あのパニック発作が出てくれたからこそ私はちゃんと自分の身体をいたわるようになり、二人目の子どもも授かることができました。もし仮にあの上司が優しい人で、パニック発作もなく普通に働いていたら、二人目を産むことはあきらめていたでしょう。
自分自身に向き合うって、とても怖いと感じるものです。母との関係をどうにかしないと!と必要に迫られたことで、向き合っていくこころの準備が少しずつできてきたんだと思います。
あの元上司も、〝パニック発作″という症状も、私が自分をいたわって大切にし、本来の私になり、二人目の子どもをもたらしてくれるために必要な恩人だったことが分かります。元上司にもパニック発作にも感謝を感じます。
また私は退職後、「みんなそれぞれ苦しんでいるのに、ひとりだけそこから抜け出して・・・申し訳ないな…」と感じていました。働きながら、その元上司と奥さんのこころの傷つきをいつもよく感じていたからです。
しかし、もし仮に私があのまま何事もなかったかのように過ごしていたとしても、誰も幸せになれませんでした。
いま、前の職場の近くを通りがかっても動悸や不安、焦燥感を感じません。みんなの車があるのをみると、少しあたたかな気持ちさえします。
今までたくさんたくさん、本当にありがとうございました。
あの職場で窮屈さや不安や苦しさをたくさん感じたのは、母に対する未解決の感情が原因だったと今は分かります。私が私らしく生きることが〝相手の幸せにもつながる″ということを、母との関係を通して学びました。
【夫婦関係の変化】
以前のわたしは、夫の行動や言葉にすごく腹の立つことがよくありました。
「なんでこうしてくれないの?」「普通はこうすべきでしょ!」
今分かるのですが、わたしは〝正しさ″を押し付け、欲求をぶつけ、思い通りに支配することで親からは得られなかった愛情を感じたかったんです。
わたしの怒りはまた、夫の愛情に対するテストでもありました。
「わたしはこんな悪い人間なんだ!それでもあなたはわたしを愛してくれるの!?」
夫の愛情を確かめずにいられなくてわざと傷つける。だけど同時に、見捨てられるのが怖くて媚びてしまう。
その分裂した気持ちのはざまで揺れ動き、とてもしんどかったです。
ところが、夫がどんなに頼んだ通りのことをしてくれても気持ちが満たされることはなく、次から次に気になるところが出てきました。
母に対する気持ちを夫に向けてしまい、怒りがこみ上げてどうしようもなくなる。それに、夫に何をしてもらっても満たされない空虚さ。
「わたしって、こんなパートナーシップしか築けない。不仲だった両親と同じじゃん・・・」自分にガッカリでした。
夫への罪悪感もありました。こんなわたしと結婚して貧乏くじを引かせてしまったような・・・。まるで騙しているような・・・。
わたしは自分のこころの痛みを夫に打ち明けました。どうしたらいいのか、一緒に考え悩み苦しみ、向き合っていきました。
夫は全面的にサポートしてくれましたが、「こんなダメな人間に付き合わせてしまって申し訳ない」と、そのことへの罪悪感も感じていました。
カウンセリングを受け、時には夫婦二人で一緒に受けました。徐々に気持ちにも余裕がでてきましたが、それでも怒りがワッと溢れると抑えきれず、どうしようもなく無力でした。
ところが、ディマティーニ・メソッド後はガラッと変わりました。
求めるばかりだったわたしに、与える余裕ができました。
執着や嫉妬がなくなり、夫が喜ぶこと、楽しいことを、ただ純粋に応援できるようになりました。
するとお互いとても楽だし、ありたい夫婦のカタチになりました。
そして、当たり前だと思っていた日常に、深い感謝が湧き上がるようになりました。
例えば〝夫が毎日お家に帰ってきてくれること″
子どもの頃のわたしは、「お父さんはいつわたしたちを捨ててこんな家を出て行ってしまうんだろう」、と不安でたまらなかったんです。毎日お家に帰ってきてくれて、夕食を一緒に囲む。そんな当たり前にみえることが、わたしにとっては奇跡だったんです。
でも、その何でもない日常に感謝ができるようになったのは、父と母の苦しみをそばで見させてもらったおかげ。
苦しみという経験があったからこそ、日々の暮らしに光を感じられ、彩り豊かに生きていけるんです。
そのことがとても、有り難いです。
この文章を書いている今、夫が健康ランドでお一人さま時間を過ごしています。夫は以前はそんなとき、後ろめたさや家の心配があったそうですが、私がディマティーニ・メソッドに参加してからは、私の気持ちが満たされて安定しているため、今までで一番気楽に遊べたそうです。そのことも嬉しいです。
【人と人が関わりあう、ということ】
私は以前、別のカウンセラーさんのところに通っていました。
それはアドバイス志向のカウンセリングで、カウンセラーの先生は
「お母さんと、物理的に距離をおいてみたらいかがですか?」
とアドバイスをしてくださいました。
そのときの私には、そんなアドバイスを言ってくれる人なんて身近にいなかったし、「親孝行しなければならないけれど、一緒にいるのはしんどいから会うのが辛い」という気持ちを分かってもらえた気がして、嬉しかったです。
けれど本当は、私はそうアドバイスをされて悲しかったんだということが今ではわかります。
「この人なら分かってくれる気がしたのに、やっぱり分かってもらえなかった」
嬉しい気持ちを作り出すことによって、その悲しさを感じないようにしていたのです。
本当は、〝お母さんを愛せない苦しみと、生きていることへの罪悪感″を分かってほしかったのに。
また私はその先生を「立派な人で立派なカウンセラーだ」と見上げて、無意識に彼の価値観で自分を裁いていました。そのことに窮屈さも不信感も感じていたし、本音を話せているようで、奥底にある言葉はなかなか言えませんでした。
もしもあのときの私があのまま受け身のカウンセリングを続けてお母さんと距離を置いていたら、罪悪感に押しつぶされていたと思います。
〝アドバイスを与える″という行為は一見、優しいことのようにみえます。しかしそれは同時に、「相手の言うことが正しい。自分の考えはダメなんだ」という信念を強め、ますます人に依存し、答えを外に求めつづけるようになる、厳しい行為でもあります。
でもだからこそ、わたしの内なる声が大きくなりました。
「そうじゃないっ!!ちがう!ちがう!」
「どうしたら、この苦しみを解決できるの!?どうしたら、息がうまく吸えるようになるの!?わたしが今している経験が必ず誰かの役に立つ!でも、一体どうやったら役立たせれるんだろう…。そもそもどうやったら、そこにたどり着けるんだろう…。」
アドバイスでは変わらない!と思えたからこそ、わたしはわたしの内側の声を大切にするようになりました。アドバイス志向のカウンセリングではなく、もっと主体的に取り組めるものを探しはじめたんです。
そしてディマティーニ・メソッドを通して、苦しみから愛と感謝の境地にたどり着きました。
私はあのカウンセラーの先生との関係の中で、優しさのなかにある厳しさと、厳しさの先にあった優しさを受け取っていたんです。
そこにはお互いに恵みがありました。
そのカウンセラーの先生は、虐待家庭でとても劣悪な環境で育ったそうです。
「殺されなかっただけマシだったとは思います。」
そう話してくださった先生は、親への怒りや罪悪感を抱え、被害者意識のままでいました。
ディマティーニ・メソッドで愛と感謝になった数日後、その先生のカウンセリングに行きました。
「………すごく嬉しい!!」と言って泣いたわたしに「良かったですね!やりたかったことをやれたんですね。本当に、良かったですね。」と、一緒に喜んでくれましたが、その目は寂しそうに感じられました。
それから私は、従順でいようとして語れなかった気持ちを語りました。本当は自分の気持ちが語れなくって嫌だったこと。怒りを感じたときに共感的にうまく取扱ってもらえなかったので怒りを感じられなかったこと。それについて本当は怒っていたこと。そんなことを素直に話せる関係性になれました。
カウンセラー自身が越えられてないものを、クライエントが越えるのは困難です。どうしてもカウンセラー自身の心のあり方が伝わってくるからです。
あの先生のカウンセリングは、根本から解決できるカウンセリングではありませんでした。だけど、わたしの人生に本当に必要な贈り物をくれた人でした。この関わりがあったからこそ、わたしは本当に心から望む方向に進み、達成したいことをできたからです。
それはきっと相手にとっても同じこと。
その先生は幼い子どもたちをもつ、子育て真っ盛りのパパです。先生の話を聞いていると、子育ての大変さをまさに経験しておられることが感じられました。それは親への未解決の感情から生まれる大変さ。子育てをしていると彼自身の子ども時代の辛い体験とよく重なるし、さまざまな心の葛藤を抱えながら、何とか踏ん張っておられるようでした。そんな中、彼は「被害者意識をやめ、愛と感謝になった」私に出逢ったんです。
それは、彼の人生の選択肢を増やすことでした。その選択を選ぶかどうかは別として、大きな影響を与えたと思います。
あの先生にとって、私との関わりはこれからも見えないカタチで続いていくでしょう。
お互いに必要で出逢えた人でした。
だから、深い意味合いでは間違いとか、失敗なんてない。遠回りに見えるようでいて、必要な道のりだったんだ、ということに気づかされました。
たくさんの優しさと、たくさんの厳しさをありがとうございました。
私はそう感じながらカウンセリング関係を終えることができました。
困難があるとき、カウンセリングをうけることは賢い選択だと思います。
援助能力が高いカウンセラーも低いカウンセラーもいるかもしれないんだけれど、やっぱりそこにあるのは〝人と人との関係〟。
関係をお互いに積みあげていく尊さが、そこにはあると思います。
人間不信があってカウンセリングに行くのに、カウンセラーに会ってさらに不信感を感じるなんて!と思われるかもしれないけれど…
お互いに謙虚になる。その気持ちを大切にすれば、関係性も変化していくんじゃないのかな。
大切なことは、受け身ではなく活かしていくこと。カウンセラーもクライアントも。
私のカウンセラーさんとの間でうまれたこの気持ちを、これからも大事にして生きていきたいです。
【私たちは、大切な人との関わりかたを繰り返す】
どうして1人の人との課題が解決すると多くの領域で変化が起こるのかなぁ、
とぼんやり考えていました。
わたしたちは愛しい人との間で傷ついて、悩み苦しみ、その面影を他のだれかに重ねてまた傷つきます。何度も、何度も、「どうして?なんで?」って。
大切な人との間で傷つきながら、何度も何度も、同じ人間関係をくり返します。
それは、悲しい想いをした子どもが、ごっこ遊びのなかで少しずつ少しずつ、気持ちを噛み砕いていくようなものだと思います。
例えば戦争体験をした子どもは、戦争の遊びを通して自分に起こった出来事の感情の整理をしていくそうです。
それと同じことが、親との傷つき体験がある子どもにもあてはまるように感じます。
長女はよく、お母さん役の人形とお姉ちゃん役の人形で、感情体験を反芻(はんすう)しています。自分を人形に当てはめて客観視したり、母親になりきったつもりで「片づけなきゃダメでしょ!」と娘役の人形に言ってみたり。
私は小学1年生のときに、母親への思いを親友にぶつけました。長女はそれにとても近いものを遊びのなかでやっているように見えます。心のなかの思いを遊びで再現しているし、「こんなお母さんがいいのに」や、「こんな自分だったらサイコー!」みたいなファンタジーも作ったりして、遊びをしながら自分で自分の気持ちを慰めたり整理したり消化しているのかな、とみていて感じました。自分を人形に投影して自分自身と距離ができると落ち着くし、思い通りに動かせるからスッキリするのかなって。
人は、人との間で傷つくから。人は、人との間で癒されたい。
アカデミーのディマティーニ・メソッドではファシリテーターさんがサポートしてくれました。その存在があったからこそ、傷つきと向き合うことができました。
そしてついに愛と感謝になったとき、「傷なんてものは最初からなかったんだ!」ということに気がついて。
それは、〝傷つき″だと思い込んでいたものが、実は〝お互いの成長のために完璧に起こったこと″だと思い出すこと。
〝傷つけられた″ことも〝傷つけてしまった″ことも。そのすべてが愛おしい関わりへと変化して。
人との関わり全てが、愛し愛されたことだったんだと腑におちる。
大切な人との間でくり返していた愛の関わりを今、またくり返しながら、気がつきながら、ひとつずつ味わっているのかな。
そう感じました。
母との苦しい感情に向き合い、母への感情が愛と感謝になったことで、今まで出逢ってきた大切な人たちに対しても感じ方が変化したのです。
【自分自身についての感じかたの変化】
私は自分の中に母に似ている部分を感じると、その自分を否定していました。ところが今は、自分の中に母を感じると温かく感じます。
また、自分のネガティブな感情が気にならなくなりました。なので、子どもの感情にも反応しにくくなりました。
私の行動パターンの中に〝なぜか人を怒らせてしまう〟というのがありました。私は子どものころ、無意識のうちに母を怒らせようとしていました。それもディマティーニ・メソッド中に気づいたことです。
なぜ母を怒らせようとしていたのか?
母は自分だけで妄想の世界に入ることがあり、私はそれがすごく嫌でした。でも母は、怒ったときは妄想の世界に現実逃避するのではなく、この世界に出てきていました。過去にふさぎ込むこともなく、未来を悲観することもなく、今ここにいて私を見てくれたのです。私は、母を妄想の世界から出したかったのです。私は、母を怒らせるということを無意識のうちに他の人にも繰り返し、怒らせてしまっていたことに気がつきました。
私は以前、女性であることや見た目を武器にしていました。自己肯定感が低かった私には、それが唯一の武器だと思っていました。
しかし、褒められると舞い上がるし傲慢(ごうまん)にもなってしまう私の気持ちを中庸に戻す働きで、「たいして可愛くない。」「バランスがヘン」と批判もされました。その経験から「褒められると嫌なことが起こる!」と思うようになり、「褒められても、受け取りたくない」と感じていました。年々容姿が母に似てくることも、耐えがたいものでした。女性として見た目を武器にしながらも、心の奥では自分が女性であること、そして自分の見た目に、ずっとコンプレックスを感じていたのです。
でも今は、女性らしい自分にも、母に似ていることにも喜びを感じます。
わたしの特性や特徴が、自分らしく生きるために役立つんだ!と、今では肯定できるようになってきました。
かつてのわたしはビクビクおどおど。いつも母の顔色ばかりをうかがっていました。でもだからこそ、人のこころの細やかな変化にも気がつけるようになりました。
吃音があったからこそ、それをカバーする目的で大人しく可愛らしい女の子を演じるようになりました。朗らかで優しい印象を人に与えられるのは、吃音のおかげなんです。
また吃音があったからこそ、「あんなふうに話そうかな、こう話せば伝わるかな」と、話しかたや表現の仕方をあれこれ考える癖がつきました。また他の人だって、言いたくても上手く言葉にならない気持ちがあるんだ、とその人の気持ちをおもんばかることができるようになりました。
それは、自分のこころの変化に細やかに気がつき、言語化し、文章にして人に伝えるために欠かせないものです。
その能力と、朗らかで優しい印象を育てるには苦しみが必要だったけど、それはわたしをカタチ作ってくれているものです。その特性を謙虚にありがたく感じながら使わせていただいています。わたしは今、人に話しができることに大きな喜びを感じます。
自分らしいと感じられる人生を歩むために、自分自身の特性を選んで産まれてきた。周りの環境も。両親、姉妹も。出逢ってきた人々も。これから出逢う人々も。そのことを少しずつ少しずつ、ひとつずつひとつずつ、愛おしみながら味わっています。
【私にとって本音で大切なこと】
私は自分にとって本音で大切なことが何かがよく分かりませんでした。でもディマティーニ・メソッドのあと、これだ!と分かりました。
- 「心ののびやかな成長」、②「人の成長にたずさわる」、③「人とのつながり」。
それがしっくりきます。
【わたしが本当にやりたいこと】
中学生のころリストカットが流行りました。私もカミソリを手首に当てたことがあります。あのときの私は、リストカットを“手段″として利用していたことが今は分かります。
所属していた部活内では、部員同士がギスギスとしてお互いいがみ合い、雰囲気は最悪。毎日部活の時間がおっくうでした。
そんな雰囲気を壊したくて。身体を傷つけることで「もうこれ以上こころを傷つけないで!」というメッセージを伝えたかった。
私のリストカットを知った部員らが部室に集まり、話し合いをすることになりました。
部員全員が輪になって、冷たいタイルの床に座りました。
重苦しい空気。
シーンと静まり返った部室。
遠くで野球部の声。
みんなそれぞれ、うつむいて。ひとり、またひとり、〝いま思うこと″を語りだしました。
「そんなに悩んでいるとは思わなかった。」
「お母さんがお腹を痛めて産んでくれたんだから、身体を大切にしてほしい。」
「困っていたのなら相談してほしかった。」
自分の本音を語る〝場″になりました。
この場をともにしたことをキッカケに、お互いのことを思いやる言葉が増え、部員同士の関係がより深くなりました。わたしの行為によってみんながつながったのです!
アカデミーのディマティーニ・メソッドを進めていったとき、ふと点が線になる瞬間がありました。
恥ずかしくて今まで目を背けていたことのなかにこそ、それまで見えなかった人生の目的、秩序、中心線が現れたんです。この中学生の頃の原体験が「わたしが今、やりたい!」と情熱を感じることにつながっています。
娘が年中さんのときのことです。毎日、毎日、ケンカをして帰ってきていました。毎日泣いて、毎日怒って、みんなに迷惑をかけている。わたし自身の様々なこころの傷つきもうずくし、娘もわたしもとても苦しい時期でした。
ふと見渡すと、私の子どもも周りの子どもたちも、みんな、親たちの心にある抑圧した子どもの部分が関係していざこざや苦しみが生まれているのが感じられました。
ところがそれは無意識の部分なので誰も気がつきません。
「それはイケないよ。」「自分もやられたら嫌でしょ」「お友達とは仲良くするんだよ」
正しい方向へ、子どもを変えようとします。
親たちのそんな言動を見て、
「どうして大人は気がつかないんだろう」「どうして見て見ぬふりをするんだろう」と、子どものころに見ていた景色を思い出しました。
どうにかこの状況を変えたい。どうにか自分を変えたい。
何とかふり絞った勇気で、娘の同じクラスのママたちに声をかけました。
「一緒に輪になって、いっしょにお話しませんか?」
そして泣きながら懸命に伝えました。
「わたしは人からどう思われるのかが怖くて、人と本音で関わるのができなかった。子どもを育てていると、そんな自分がすごく出てきて苦しい。でも子どものためにも変わりたい。
だから、〝ママ″という枠をこえてひとりの女性として、人間として、みんなとお話したい。」
その言葉はみんなのあたたかな笑顔に迎え入れられました。
そこから、大人同士の関わり合いも、子ども同士の関わり合いも深くなったし、風通しが良くなったように感じます。
みんなで輪になって座り、話したいことを話し、ただそのままでいられる〝場″を創る。
ママたちのお話の会に一度だけ参加した純子ちゃん(仮名)という人がいました。親との関係で心に葛藤を抱えていました。彼女と話したのは一度しかなかったのに、1年半たったころにバッタリ会ったとき、こう教えてくれました。
慣れない育児と親との関係に怒りが爆発し、何度も何度も「もう限界かも」と思ったそうです。そのとき私たちとの関係がこころの防波堤になって、なんとか夫婦で乗り越えてこれたそうです。
「最悪なことになっても、めぐちゃんたちがいる!なんとかなる!」って。
まだそのときのわたしは母との関係も解決しておらず、自分が経験していること、感じていることを話すことが人の役に立てているという実感がありませんでした。それどころか「勢いでしゃべって、変な影響を与えてしまったかも…」と、後悔する気持ちもありました。
そんな私に、「未成熟でもいい。今できることをやっていったらいいんだな。そのときには見えていなかったプラスも、その先のプラスへと繋がっているんだ」と思わせてもらえる出来事でした。
純子ちゃんと私たちの関係のように、同じ空間にいなくても、時は流れていっても〝場″は続いていく。私たちは会わなくなり関わらなくなっても、見えないカタチで関わり続けていると感じます。関係性は続いていくんだなって・・・
〝場″とは、人と人との間にあるもの。
そのままのわたしと、そのままの相手が出逢う〝場″。
純粋に関わりあう姿は美しいし、その在り方はその場に居合わせた人々にも影響を与えます。お互いに響きあい補い合いつながっていく。
わたしたちはそういう存在なのだと、場のなかで確かに感じることができるんです。
ときに厳しい出来事も起きます。分かり合えないこともあります。
でもそこから、お互いにまたひとつひとつ、積み重ねていく、しなやかなこころが育って行っている気がします。
わたしは女性たちが心地よく笑っておしゃべりしている姿をみるのが好きです。
それは、かつて母が窓辺にひとり座り、虚しさを紛らわすために空想の世界に閉じこもって空虚な笑顔を浮かべている、そんな母を見て不安だったし、悲しかったし、母を喜ばせることができない自分に無力さを感じていた、その経験があるからかもしれません。
今しかない子どもたちとの時間を、こころ豊かに、のびやかに過ごしたい。人々と響きあい、補い合ってつながっていきたい。人生の美しさ、素晴らしさを分かち合いたい。
そのためにこれからも一歩一歩、いまできる行動を、今までの人生に感謝しながら、していきたいなと思っています。
【穏やかでラクになった】
今は自分の人生に信頼ができます。大丈夫なんだ!と、心から思えます。気分の浮き沈みが小さくなり、感情が安定しています。嫌な気持ちになっても早く立ち直れるようになりました。日ごろから穏やかな気持ちで過ごせるようになりました。
人に対して、私がどうにかしなきゃ という想いがグッと減りました。お互い楽です。人に本音を言えるようになったし、本当の自分を見せられるようになりした。すると、友だちも私に本音を言ってくれるようになりました。人とのつながりが深くなりました。
それに、美しいものに触れたときに、以前よりももっと感動が湧いてきます。感動が増えました。
以前のわたしは、過去のこころの痛みのために目の前の現実が歪んで見えていたし、「こんなひどいことになったらどうしよう!」と未来の不安に怯えながら生きていました。
こころの痛みを癒して成長したことで、人生の景色がまったく違って見えます。
〝今″のこの瞬間に、過去の豊かさも共に過ごしているんだなと感じています。
「過去は苦しかったけれど仕方なかった」のではないし、
「過去は苦しかったけど今は幸せだから良かった」のでもなく、
「過去の苦しみがあったからこそ、いっそうこころの豊かさや幸せが増えている」のです。
過去の苦しみが解消したら、混沌とした人生に、美しい秩序がみえるようになりました。
「子どもたちに、食事をつくって与える」
この何ということのない行動ひとつとってみても、わたしにはたくさんのこころの葛藤がありました。ただ食事を作ることだけで、わたしはヘトヘトになっていましたが、なぜなのかが分かっていませんでした。
当時は気づいていませんでしたが、わたしは自分が被害者でいるために〝母から優しくしてもらった記憶″を抑圧する必要がありました。毎日食べさせてもらっていたし、優しくしてもらったこともあったのに。
その母に怒りを抱いていることへの罪悪感がありました。
母の愛を受け取れない悲しみもありました。
さらには、わたしには「こうあるべきだ!」という達成不能な〝良い母親像″がありました。ところが実際の自分はそうではありません。子育ての喜びを感じられない悲しみと憤り。自分は〝悪い母親″だという激しい劣等感。
わたしはそれらの感情を感じないように無意識に押し込めながら、子育てをしていました。わたしはこんなたくさんの葛藤にこころのエネルギーを使っていました。だから、ただ食事を作ることでヘトヘトになっていたのでした。
ディマティーニ・メソッドでこころの葛藤を解消したことで、目の前の現実があるがままに見えるようになりました。
今この瞬間にある豊かさが感じられるし、過去の豊かさも感じながら生きられるようになったんです。
「あいちゃんの食べてる姿が一番好きだよ。」
そうニコニコしながら見守ってくれた母の姿が想い起されます。
今わたしは、子どもたちに与える喜びと、過去に母に与えてもらっていた喜びをともに噛みしめています。
母に先日、子どもたちがクレープを食べている写真を送りました。
「昔よくクレープを買ってくれたよね。あいちゃんが食べてる姿が一番好きだよって言っていたの、わたしも今、子どもを育てているとつくづくそう感じるよ。今子どもたちにしてあげられていることは、お母さんがしてくれていたからこそだね。おいしい幸せな想い出をありがとう。」
そのメッセージに、母はこう返してくれました。
「覚えていてくれてありがとう。でもね、あのころは若干の後ろめたさはあったかな。働いていなかったから、外食が多いと遊んでいるような、罪悪感が生まれてしまうのよね。
専業主婦は収入がなくて、不安と焦りのようなものがあったなーと、今は思います。
なので、今、楽しそうに子どもたちに食べさせているあいちゃんをみると、羨ましさと別の安心感もありますね。焦らなくても、良いんだな、という安心感ですかね。ヤッパリ美味しそうに食べている姿は、今でも、良いものですね。」
母がこんなにも落ち着いて感情を人に伝えることができるなんて、かつては考えられませんでした。母は母のペースでゆっくりと、しっかりと、進んでいっています。そのことも嬉しく感じます。
母を愛せたことで、やっとやっと自分自身を愛する許可が出せた気がします。
【ありのままの自分を愛する】
〝わたし″とは、今まで歩んできた道のりのこと。
その道のりを愛する過程は、わたしの内面の世界を知るだけではなく、周りの人々の豊かさに気がついていく過程でもありました。
険しい道、優しい道、どちらかが勝っているわけでも劣っているわけでもありません。どの道を選んでも、必ず自分自身の真実にたどり着きます。
揺れながら、迷いながら、廻り廻ってふと気がつく。
何をしていても、何をしていなくても。誰かに抑え込まれても、自分で自分を押し殺しても。いつでもわたしは本音で大切なことに沿って生きてきたことに。
内なる大きな光に。今わたしは生きている!という喜びに。
そのことに気がつけたことが、わたしの人生に与えられた大きな、大きな恵みでした。
周りにあるサポートに気がついて受け取ること。ディマティーニ・メソッドやカウンセリング、セラピーなどを活かして、未解決のこころの痛みに取り組むこと。
それは、周りの人々と調和し、自分らしく、豊かに生きていくために、そして優しい道を歩んでいくために、とても賢い選択だと感じます。
ひとりひとり歩んできた人生、してきた経験、見てきた景色はそれぞれに独特のもの。
わたしは子育てを通して、母との関係、こころの痛みに向き合っていき、そこから〝自分らしい″と感じられる人生を、今まさに歩みだしたところです。
これは、わたしの話でもあり、あなたの話でもあります。
かつて子どもだったすべての大人たちに繋がる普遍の物語だと思います。
自分を愛することは、世界を愛すること。
世界が変わるって、周りの環境が変わるってことじゃなくって、今ある景色が変わって見えるってことなんですね。世界がほんとうに素晴らしいということ。腑に落ちました。
いま確実に分かっていることは、いま、生きていて嬉しい😆❣️ということです。