カウンセリングのご予約を多くいただいているため、新規お申し込みの受付を停止しています。
予約待ちのみ承っていますが、ご予約は2年以上さきになりそうな見込みです。
ご予約待ちのお申し込みはこちら

こころの専門家が “生きててよかった” を見つけるお手伝い

  • メールマガジン
  • 講演・研修・SVのご依頼
  • 取材のお申込み
  • カウンセリング予約

BACKGROUND 私の生い立ち

sec01_img

わたしは子どものころ、「ぼくって不幸な子どもだ」
と一人で泣いていたことを覚えています。

大人になってから母から聞いたことです。

私の妹と私がまだ1歳や2歳に満たない幼児だったある朝、
その二人が寝ていた敷布団の下に、父は、大きな出刃包丁が
隠されているのを発見したそうです。

父はびっくりぎょうてん!!!

それはそうでしょう、
二人の幼児が寝ている布団の下に、出刃包丁が置かれていたのですから!

母でした。出刃包丁をそんなところに置いたのは。

母は母子心中するつもりがあったはずです。

父はすぐに母を精神科の病院に連れてゆき、
それからしばらくは、母を見張るために家から出られず、
仕事にも行けなかったそうです。

妹と私は、そんな情緒不安定な母親に育てられました。

父は安月給で、そのお金も酒やバクチに使うし、
家を空けることも多かったそうです。

母はものすごい貧乏で、いつもひもじくて、
お乳の出も悪かったそうです。

母はそんな状況で二人の幼児を抱え、
お金の不安、将来の不安、無責任な父への怒りと恨み、孤独感と
必死に戦っていたのです。

駅のホームで、幼い妹と私の手を引いて線路を見下ろし、
「いっそここから飛び込んだら、ラクになるかな・・・」
と思ったことも何度もあったと言います。

若かった両親は、二人の幼児を育てることができなくなったので、
妹と私は、田舎の祖父母に預けられました。

おじいちゃん、おばあちゃんはとっても優しかったのですが、
親と離れて暮らすのは寂しかったです。

3年後、妹と私はふたたび両親の元の戻されましたが、
両親は仲が悪く、やがて離婚しました。

母はいっそう、不安とイライラが強くなりました。

私は母から叩かれたり、
「バカ!」、「アホ!」、「弱虫!」などと、ののしられました。

母も、つらく苦しかったのです。

わたしは、神経質で怯えた、おくびょうな子どもになりました。
病弱でガリガリに痩せ、
学校ではしょっちゅう保健室に行って横になる子どもでした。
また、校内暴力の嵐が吹き荒れる公立学校で、いじめられました。
学校は辛くて嫌いでした。

こころの傷

やがて大人になり、自分では分かっていなかったのですが、
子どものころに受けた痛みはこころの奥にずっと残っていて、
日ごろの感情や行動に、いろんな悪影響を及ぼしていたのでした。

たとえばわたしは、「良い心理カウンセラーになりたい」
と強く願って、ものすごく努力しました。
世の中にたくさんいる「心理カウンセラー」や「臨床心理士」たちのなかでも、
わたしより努力をした人はめったにいないでしょう。

それは、「人々に幸せになってほしい」
という愛から来る努力もあったと思いますが、それと同時に、
「有能なカウンセラーにならないと、自分の存在価値が感じられない」
という、自己無価値感から来るものでもありました。

ところがそんな思いで一生懸命にカウンセリングをしても、
カウンセラーとしての能力には限界がありました。

でも、わたしは自分がカウンセリングを受けることを通して、
こころの奥底にずっとあった、自分自身についての無価値感が、
すこしずつ癒されてゆき、何かが確かに変わりました。
力が抜けてラクになったし、気持ちが安定しました。

また、わたしは米国に8年2ヵ月住みました。
大学院に通い、卒業してからはカウンセラーとして働きました。
外国での大学院生活と就職はたいへんで、とてもストレスの多いものでした。

その環境で鍛えられたとともに、
幸せな人々、不幸な人々をたくさん見ることになりました。

それらの経験から、わたしは「人が幸せに充実して生きるにはどうすればいいのだろう?何が大切なん だろう?」と深く見つめるようになりました。

そして、自分自身が変容してきた経験、心理カウンセラーとして人々を援助してきた経験、心理学者 としての研究、スピリチュアルな修行、それらから得たものを、多くの方々にお届けするようになりまし た。
古宮昇プロフィールに戻る